七苗
ときがわ町 萩日吉神社の流鏑馬神事
2026/01/18
埼玉県比企郡の小川町は、かつて登山仲間の常吉さんが住んでいたところ。そうは言っても池袋から東武東上線で1時間ほどのやや遠い場所なのでこのあたりを訪れることはめったになかったのですが、2022年に常吉さんが亡くなってから、一周忌ではこのあたりの里山をつないで長い縦走を行い、三回忌にはお隣の嵐山町の嵐山史跡を訪ねて歴史を勉強したりと多少の縁ができました。
そしてこの日は、小川町教育委員会が折々に開催しているという「おがわ学セミナー」に参加しました。
この「おがわ学」とは、小川町の地域資源を題材として町内の小中高校の児童生徒に地域の文化や歴史、産業等についての学びを与え、地域活動への参画や地域課題の解決への取組みを促そうとする小川町独自の教育プログラムだそうです。うーん、すばらしい。さらにその内容を大人向けにアップデートし、地域の人々や小川町に転任してきた教職員にも「おがわ学」の学びを伝える企画として2022年からスタートしたのが「大人・教職員のためのおがわ学セミナー」というわけで、第20回である今回のセミナーのテーマは次のとおりです。
萩日吉神社流鏑馬神事 ―800年の伝統をつなぐ― 見学ツアー
萩日吉神社流鏑馬神事保存会は、源義仲(木曾義仲)の家臣であったという伝承を共有する大河郷の横川氏、小林氏、加藤氏、伊藤氏、明覚郷の荻窪氏、市川氏、馬場氏の七氏(七苗:しちみょう)を中心に結成されました。今回のおがわ学セミナーは、三年に一度開催される萩日吉神社流鏑馬神事を見学するツアーです。
晴雲酒造
神事が行われる萩日吉神社があるのはお隣のときがわ町ですが、せっかくの「おがわ学セミナー」なのだから小川町の名産に親しむ機会を設けなくては。この小川町は和紙の里としてとりわけ有名ですが、秩父山地から豊富に供給される水質良好な水と冬の冷え込みが吟醸造りに適しているため、銘酒の産地として知られる西の灘にあやかり「関東灘」とも呼ばれていて、三つも酒蔵があるのだそう。和紙もいいけど、親しむならやはりお酒ですな。

そこで、今回のセミナーに誘ってくれたラン友マドカ(埼玉県民)と早めに小川町駅で待ち合わせ、駅から徒歩10分ほどの晴雲酒造(1902年創業)を訪れました。10名以上のグループなら酒蔵見学(予約制)もできるそうですが、我々はシンプルに買い物と食事が目的です。


売店に入ると正面にメインブランド『晴雲せいうん』の「無濾過生原酒」と「本醸造しぼりたて生」が並び、2月下旬には「大吟醸朝しぼり」も発売されるとの告知がされていました。また、入ってすぐ左には「玉の井戸」から汲み上げられる仕込水が流れていますが、飲んでみたところ硬水であるはずなのに予想外にまろやかな味わいだったことに驚きました。硬水と酒造りとの関係は国立科学博物館での「和食展」や飯能の五十嵐酒造でも学んだところですが、秩父の石灰岩層から供給されるこのあたりの水はことに硬度が高い(しかし鉄分が少ない)ことが特徴で、これが酵母菌の働きを高めるのだそうです。さらに売店の右奥では、もうひとつのブランド『善祥』を無料で試飲できるようになっており、ここで「純米」「純米吟醸」「純米大吟醸」を飲み比べた結果、フルーティーでやや甘口の「純米大吟醸」(精米歩合45%)を買い求めました。
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ついで、晴雲酒造併設の酒蔵レストラン「自然処 玉井屋」で腹ごしらえ。一品一品丁寧に作られた料理がいずれも美味でしたが、ことに地元の野菜をさまざまにアレンジしてビュッフェスタイルで提供してくれるのがうれしく、幸せすぎてあやうくこの日の小川町訪問の目的を忘れそうになってしまいます。しかし、ここでの飲酒はごく控えめにしておいたおかげでかろうじて理性を保つことができ、食事を終えたらセミナー参加者の待合せ場所である小川町役場へ向かいました。冬の最中ではあるものの今日に限ってはぽかぽか陽気で、晴雲酒造から小川町役場までの10分ほどの道のりも酔い覚ましにちょうどよい散歩になりました。
萩日吉神社
小川町役場の広場で係の方に挨拶をして受付をすませ、他の参加者と共に専用バスに乗って萩日吉神社へGO。その際に配布された資料と車内での説明をもとにこの流鏑馬神事の由来をごく簡単にまとめると、次のとおりです。
- 萩日吉神社の流鏑馬神事は、小川町大河郷の四氏とときがわ町明覚郷の三氏がそれぞれ保存会を結成・協力して執り行っている。この七氏(七苗しちみょう)は先祖が木曽義仲の家臣だったという伝承を共有しており、義仲没後に源義賢(義仲の父)が本拠を構えていた比企郡に戻って分住したとされる。
- 流鏑馬神事は天福元年(1233)、義仲の霊を祀り流鏑馬を奉納したのが始まりと伝えられ、代々の七苗によって明治前半の中断をはさみつつ毎年実施されていたが、昭和37年から三年に一度に改められた。なお、七苗が比企郡に戻ってきたときにその世話をした平村の坂本家が、今日に至るまで流鏑馬神事に馬場作りで協力している。
- 当日は大河郷と明覚郷から早朝に当番家を出陣し、道中の神々に対する拝礼等の行事を重ねながら(大河郷からであれば松郷峠を越えて)萩日吉神社を目指す。両郷到着後、それぞれ陣幕を張って陣場とし、午前中は馬を馬場で走らせる朝マトウ。そして午後にいよいよ矢を放つ夕ゆうマトウ(「たまとう」ではありません)を行う。
今回拝見するのは、この最後に記された「夕マトウ」ということになります。


現地に着いたら、まず大河郷陣場で前大河郷保存会会長の伊藤国男氏(武士名「伊藤国男信義」)から神事のあらましについての解説をお聞きし、さらに華やかな出立ちの乗り子の女性と矢取り子の少年を紹介いただきました。かつて乗り子は七苗の中から22-23歳の長男が選ばれていたそうですが、今日では農耕馬もいなくなったのでそういう訳にもいかなくなり、乗馬クラブに馬と共に派遣を依頼しているのだそうです。なお、初めて女性が乗り子になったのは3年前(前回)で、前例のないことなので大河郷四苗で相談の末「義仲軍には巴御前がいたのだから」というまことに見事な理屈をもってOKを出したそうです。


流鏑馬神事に先立って萩日吉神社に参拝。さほど大きな神社ではありませんが、立派な石鳥居をくぐるとすぐ右側に堂々たる男杉女杉二本の児持杉、まっすぐ石段を登ればいったん平坦になって木の鳥居をくぐり、手水を使ってさらに短く登れば拝殿がある境内です。社伝によればこの神社は欽明天皇6年(537)11月、蘇我稲目により創建されて萩明神と呼ばれていたが、平安時代初期に天台宗関東別院となった慈光寺一山鎮護のため近江国の坂本から日吉大神を勧請合祀し、萩日吉山王宮に改称。明治元年の神仏分離により再び萩日吉神社と名称を改めて現在に至っており、祭神は大山咋命、国常立尊、天忍穂耳尊、国狭槌尊、伊弉冉尊、瓊々杵尊、惶根尊ということです。

ところが石段を登って前方を見ると拝殿の前には参拝客が長蛇の列を作っており、このままでは流鏑馬神事の開始に間に合いそうにありません。小川町役場の係の方の助言もあって、我々は参拝を後回しにして馬場に向かうことにしました。
すでに大勢の観客が馬場の周囲に集まっていましたが、馬場を縦に見通せる場所をゲットすることができて、ここから約1時間の流鏑馬神事(夕マトウ)を拝見できました。その段取りは、あらまし次の通りです。
- 神主を先頭に入場。進行方向右列が明覚郷、左列が大河郷。
- 当番同士の口上。
- 馬上の乗り子が的にコツコツと矢を当てて一礼する蟇目。
- 東西南北、中央、萩日吉神社に向けて矢を射る四方固め。さらに観客に向けて数十本放たれる矢は縁起物なので取り合いになる。
- 矢取り子が介添と共に馬場を走って退場。
- 乗り子が馬を走らせ、的を射る(一芝)。
- 矢取り子と乗り子が戻ってくる。両郷から互いの馬にニンジンとミカンを与えてねぎらう。
- 5〜7を二芝・三芝と繰り返し、さらに四芝は軍扇、五芝は鞭を馬上で遣う。最後は鞭を投げ捨てて万歳をしながら駆け抜ける乗払いで終了する。
下の写真は準備中の乗り子の様子ですが、手前の大河郷は矢を一本持ち一芝は一の的、二芝は二の的……と射るのに対し、向こう側の明覚郷は一度に三本の矢を持っています。

もっとも乗馬クラブの方が日常的に和弓の練習もしているわけではなさそうで、流鏑馬という言葉から想像される全力疾走での騎射の妙技(たとえば〔こんな感じ〕)とは大違い。特に大河郷の馬は興奮していて口取りも苦労しており、なんとかこれを宥めておおらかに馬を進め、おもむろに的を射る感じでしたが、なかなか当たらなかったり落馬もあったりして見る者をハラハラさせました。しかしこれは競技ではないのだし、吉凶占いでもないだろうから当たらなくても支障ないのだろうと思っていたら、三芝に至って明覚郷の乗り子が一の的に見事に矢を当てることができて、そのときの「カン!」という甲高い音に観客が大きな歓声と拍手を送りました。ああ、よかった。

五芝で乗り子が馬場を駆け抜けて行った後には、挨拶を交わす両郷の皆さんにもほっとした空気が漂っていましたが、こちらはダッシュで神社の石段を駆け上がり、手短かに参拝をすませてからセミナー参加者の集合場所に戻りました。
終わってみれば、「面白いものを見た」というのではなく「大切にしたいものを見た」という印象でした。この「大切にしたいもの」というのはもちろん、この行事を800年間にわたって守り続けてきた人々の、世代を越えた思いの繋がりです。上述の乗り子の件のように、こうした伝統行事を持続させることは今後ますます難しくなっていくと思いますが、それでもぜひ900年、1000年と絶えることなく維持していただきたいものです。
しかし、この土地に縁のない自分(都内在住)がそういう無責任な感想を表明することには、些かの後ろめたさも覚えます。よって自分ができるせめてもの貢献として、これからも小川町・ときがわ町を含む比企郡の歴史と風土に関心を持ち続け、これに親しむ機会を折々に設けていきたいと思っているところです。

最後に、行き届いた運営で貴重な体験をさせてくださった小川町役場の方々に厚く御礼申し上げます。また、セミナーに誘ってくれたマドカもありがとう。このお礼はいずれお酒で、今度は小川町の「帝松」で。



