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瀬川拓郎『アイヌ学入門』

2026/01/24

瀬川拓郎『アイヌ学入門』(2015年)読了。「入門」とうたっているだけあって初学者にも読みやすく、また各種史料を巧みに組み合わせて立論していく過程が生き生きと描かれて、たいへん興味深く読み通せました。

実はこの本は昨年11月の旅行の途上で読もうと事前に買っておいたものの、旅の間は手をつけることができずにそのまま積ん読していたものなのですが、年末年始の課題図書とした『ゴールデンカムイ』に続いて読んだ中川裕氏の著作の中にも瀬川拓郎氏の興味深い論考が含まれていたことから、ようやく手にとることにしたものです。目下リハビリ中で時間があり余っていることを活かして、今月はいわば「積ん読解消月間」というわけです。

◎以下、今後の学習に向けた備忘として本書のあらましを振り返っていきますが、この領域はまずもって「諸説あります」というのが基本ですし、10年たてば共通見解すら大きく変わっていても不思議ではないので、ここでは個々の内容の当否には踏み込まず、あくまで「本書にはこう書かれている」という客観的なスタンスで記しています。また、主に個人的な関心に基づいて興味を惹かれたところをピックアップしており、本書の内容を網羅的に紹介しているわけでもありません。

本書の目的は、「はじめに」の中に記された著者(執筆時は旭川市博物館館長)の次の言葉に端的に示されています。

本書は、アイヌの歴史や文化を通じて、かれらがどのような人びとであるか知っていただくことを目的としています。ただし読者は、従来のいわゆる概説書とは異なる内容に驚かれるかもしれません。というのも、本書はもっぱらアイヌの歴史を文化の交流史として描き、アイヌ文化にみられる異文化の影響を明らかにしているからです。読者は、ではアイヌ文化とはいったいなんなのか、と立ち止まって考えることになるでしょう。

次に著者は「はじめに」の中でアイヌを単純に『自然と共生する民』と評価してしまうと、交易民として生きてきたかれらの複雑な歴史の意味を見失うことになりかねないと先入観の転換を求め、その上で世界中のどの民族とも異なるアイヌの特徴を一言であらわすとすれば、『日本列島の縄文人の特徴を色濃くとどめる人びと』であって、したがって北海道の先住民どころか日本列島の先住民であると指摘してから、お互いに「遠くて近い」複雑な関係にあるアイヌと和人との距離感を測るべく、章を分けて以下のような検討を行っています。

  1. アイヌとはどのような人々か
    • アイヌの文化
      • アイヌ社会の自然利用のあり方は、縄文時代以来のエコ・システムを維持してきたと理解されることが多かったが、広範な地域に定住し多様な動植物利用を行っていた縄文時代とは異なり、日本との交易が大きな課題となった10世紀以降のアイヌ社会は、本州への交易品(毛皮や干鮭、オオワシの尾羽など)の生産に特化し、その獲得に有利な場所に地域社会を再編している。
      • アイヌの神カムイ観念や各種文化も、和人や東北アジアの諸民族との交流の中で形成されてきたものである。ただし、アイヌが今日に至るまで自らの文化的な独自性やアイデンティティを強く自覚してきたことには留意する必要がある。
    • アイヌの歴史
      • アイヌは縄文人の形質と文化を色濃く受け継いでおり、そこにオホーツク人や和人のDNAも加わって現在の集団を形成している[1]が、そうした形質的な変容と文化的なアイデンティティとは別の問題である。また、北海道では縄文時代・続縄文時代・擦文時代・アイヌ文化期という時代変遷があるが、その移行は断続的ではなく連続的であり、アイヌ文化期(13世紀〜)になって突然アイヌが出現したわけではない。
      • 4世紀になると大陸沿海州との交易を担うオホーツク人がサハリンから北海道へ南下を始め、6世紀になると日本との交易にも乗り出したため、アイヌは北海道南半に押し込められ、オホーツク人との対立が表面化する[2]。これと並行して、4世紀の気候の寒冷化によって稲作が困難となり人口が減少した東北地方へ進出したアイヌはそこで日本の古墳社会と接点を持ったが、その後、古墳社会の北上が始まり6世紀には北海道に撤退した。さらに7世紀後葉には、アイヌと交易していた東北地方太平洋岸の日本人の北海道移住が行われ、その農耕や信仰などの文化的影響が擦文文化を生んだ。
      • 9世紀後葉になるとアイヌの全道への進出が始まり、13世紀にはオホーツク人を同化させるに至った[3]。さらにサハリン南部と千島列島にも進出し、最終的にその交易圏はアムール川下流域を含む広大な環オホーツク海世界の南半を占めた。この圏域拡大は活発化した日本との交易の需要に応えることが動機だったと考えられ、その過程において生じたサハリン先住民ニヴフとのトラブルのために元朝の討伐まで受けている。
      • 14世紀後半以降、和人の北海道移住が本格化し、コシャマインの戦い(1457年)を皮切りに1世紀にわたる抗争の時代が続いたが、16世紀に後の松前藩の祖である蠣崎氏が和人とアイヌとの交易を集約するようになり、シャクシャインの戦い(1669年)を経つつ統制が強化されていく中で、アイヌ社会は疲弊していく。さらに、明治政府樹立後のアイヌ内国人化政策や、ロシアとの間の千島・樺太の主権移動に伴う強制移住などを通じて、アイヌの生活基盤や伝統的文化は大きく毀損することになる[4]
  2. 縄文―一万年の伝統を継ぐ
    • アイヌ語
      • アイヌが受け継いだ縄文伝統の代表は、アイヌ語である。アイヌ語は周辺地域に親戚関係にある言語を持たない孤立した言語とされるが、このアイヌ語の孤立性は、アイヌ語が一万年以上も周辺集団との交流をもたなかった縄文社会の言語の系統であることに由来するのではないか。
      • 東北地方に見られる地名ナイ(宮城県以北)とペツ(青森・秋田・岩手)はいずれもアイヌ語の「川」に由来し、その分布はアイヌの東北進出と撤退の過程を推定する材料になる。これは、アイヌが仙台〜新潟ラインまで南下していた4世紀にはナイが使われていたが、古墳社会の北上に伴う北東北への後退の過程で(理由は不明ながら)ペツが使われ始めたため、東北地方の南部にはナイだけが残り北部にはナイとペツが混在したものである。このように4-6世紀に日本語とは異なる言語としてアイヌ語が話されていたのなら、それは縄文時代にさかのぼる言語である可能性が高い。
      • 東北地方のマタギは狩猟時に特殊なマタギ言葉を使うが、その中にはアイヌ語由来の語彙(セタ、ワッカなど)が含まれる。これは、東北地方に進出した古墳社会の農耕民の中に、アイヌから狩猟や皮革加工の技術を導入して季節的な商業狩猟に従事する集団が生まれ、その末裔がマタギになったことを示すものだろう。
    • クマ祭りの起源には諸説あるが、縄文時代の本州では春の出産期に入手した子イノシシを初冬まで飼育して殺す祭りが行われていたことが判明しており、これと同様に北海道の縄文人が津軽海峡を越えてイノシシの幼獣を入手し、一定期間飼育した後に殺す祭儀を行っていた証拠があることからすると、クマ祭りは縄文時代のイノシシ祭りの名残りであると考えられる。イノシシからクマに動物が変わったのは、続縄文期に日本との間でヒグマ毛皮の交易が盛んになったからだろう。
    • サハリンアイヌのミイラ習俗や、アイヌ女性のイレズミ習俗もまた、縄文時代に本州でも北海道でも行われていたこれらの習俗が残されたものと考えられる。
  3. 交易―沈黙交易とエスニシティ
    • 近世の千島アイヌやサハリンアイヌには、他民族と交易を行うときに所定の場所に商品を並べてそこを離れ、人間同士は接触せずに代価となる商品と交換する「沈黙交易」の習俗があった。こうした沈黙交易の記録は『日本書紀』の阿倍比羅夫の記事にも見られ、それぞれ理由を異にしながら[5]も古代から近世まで行われていたことがわかるが、元来これは、オホーツク人をはじめとする北東アジア先住民の習俗であり、アイヌと北東アジア先住民との交流の歴史を示すものである。
    • 一方、10世紀頃から活発になった和人とアイヌの交易は、北海道の太平洋沿岸と日本海沿岸とに二極化してそれぞれのルート上での流通に関与する同族集団を組成し、さらに渡島半島南半に青森・秋田の土師器文化と擦文文化が融合したクレオール集団を生じて、中世にはこれら三つの集団が和人側から「日ノ本」「唐子」「渡党」と呼ばれつつ、全体として「蝦夷」と総称されていた。このことは、彼らが和人との交易を通じて経済的関係に基づく地域集団を形成しながらもアイヌとしての民族的なアイデンティティを共有し、和人もそのように認識していたことを示している。
  4. 伝説―古代ローマからアイヌへ
    • 小人(コロポックル)伝説の原型となっている伝承には「海を渡って土を盗みに来る」「これを脅すと船もろとも隠れる」「ワシにさらわれないよう大勢で手を繋いで歩く」というモチーフがあるが、これは北千島アイヌが土器造りの粘土調達のために海を渡ることがあること、他者との接触を嫌う沈黙交易の習慣、そして北千島が交易品としての鷲羽の採取・出荷地であったという実態を反映している。北千島にアイヌが進出したのは15世紀[6]のことなのでこの伝説は15-16世紀に成立したことになるが、「手を繋いで歩く」は中世説話『御曹司島渡』(義経伝説)から取り込まれたものであり、これは早くから金掘りなどのために北海道に渡っていた和人が伝えたものだろう。なお、この話は元を辿ると古代ローマのプリニウス『博物誌』の記事が中国に伝わったものである。
  5. 呪術―行進する人々と陰陽道
    • アイヌ社会では変死・火事・災害などがあったとき(北千島では外界に触れた者が帰還する際にも)穢れを払うため唸り声をあげ地面を踏みしめて行進する「行進呪術」の風習があった。そこにはとりわけ死者のケガレに対する強い忌避が働いているが、このような死に対する態度は縄文時代のそれとは180度異なっている。すなわち、行進呪術の動作は陰陽道の歩行呪術である「反閇へんぱい」に由来すると考えられ、9世紀後葉以降東北北部に入り込んだ陰陽師と修験者の影響で成立したものであって、死に対する態度が縄文時代と異なるのはそれが外来思想だったからだろう。
  6. 疫病―アイヌの疱瘡神と蘇民将来
    • アイヌは疱瘡の神を「諸病の王」と呼んで恐れた。この疱瘡神が海から船に乗ってやってくるという観念や、疱瘡神を避けるために草人形を並べたり草の輪をくぐる習俗は日本の疱瘡神の習俗と共通しており、特に疫神歓待というモチーフを持つ疱瘡神由来譚は日本の「蘇民将来」伝説そのものである。アイヌの疱瘡神の観念や呪術は、日本のそれから多くを取り入れたものだったのではないか。
  7. 祭祀―狩猟民と山の神の農耕儀礼
    • アイヌ語の中に日本語からの借用語は多くない(cf. 英語へのフランス語の影響)が、祭儀に関する語彙(神カムイ、魂タマ、麹カムタチなど)は例外的にほとんどが日本語からの借用語であり、言葉や祭具だけでなく古代日本の宗教儀礼そのものがアイヌ社会に入ってきたものと考えられている。この日本の宗教儀礼をアイヌに伝えたのは、7世紀後葉に東北北部太平洋岸から北海道に移住して農耕文化を伝え擦文時代の誕生を促した日本人=中央からエミシと呼ばれた人々だっただろう。
    • アイヌの祭儀に欠かせないイナウとイクスパイも、日本の「山の神信仰」の祭具であるケズリカケと斎箸が農耕や酒造りの文化と共にアイヌに伝わってこれらの起源となった可能性がある。しかも、アイヌの祖霊祭祀において祀られる13神または15神のうち、戸外の幣壇で祀られる大幣(=農業)・森・狩猟・水の四神の組合せは日本の山の神信仰における神々の組合せと同じであり、このことからアイヌは祭儀の形式だけでなく山の神信仰そのものを受容したと考えられる。
  8. 黄金―アイヌは黄金の民だったか
    • 17世紀前半にはアイヌの総人口をはるかに上回る数の和人が金掘りのために北海道に渡っていたが、シャクシャインの戦いの後に松前藩が金の採取を禁止したために産金地は放棄されてしまった[7]。しかし、17世紀から18世紀にかけて北海道・千島に来航した西洋人たちの記録や、18世紀初頭の日本の国学者の随筆の記事から、アイヌがこの間も金の価値を知り自ら採取もしていたことが窺える。
    • 胆振の山間部では、奥州藤原氏の時代に平泉から移住した相当程度の集団の遺物が出土しており、また中尊寺金色堂の金箔には日高由来の金が一部用いられていたと言われている。さらに、胆振・日高の山間部には10世紀になるとアイヌの集落が集中するようになったことがわかっている。10世紀以降のアイヌの集住地は交易品(鮭・鷲羽など)の獲得に有利な場所に限られ、この目的のためにあえて山間部に住むことは考えにくいことからすると、奥州藤原氏が北海道の産金地の経営に取り組み、アイヌがその採取に従事していた可能性が浮かぶ。そしてそこには、奥州藤原氏の金生産を支えた熊野修験が10世紀以降に北海道に渡来している事実が結びつく[8]
  9. 現代―アイヌとして生きる

このように、本書は第1章で縄文文化の後継者としてのアイヌのアイデンティティを描き、第2章で「交易の民」としての彼らと北東アジアや日本との交流の様相に言及した後、第3章以下ではさまざまな視点からアイヌ社会への日本文化の受容の歴史を明らかにしています。ただし、その中で著者が一貫して述べているのは、アイヌが受容した日本文化を自分たちのコンテクストの中で消化し、独自の位相をもつものとして創造していたという指摘であり、それこそがアイヌ文化の個性であるという認識です。

そして最終章は、第7章までの叙述を踏まえつつ、日本国民としての意識を持ちながら現代に生きるアイヌの人々が民族のアイデンティティとどう向き合っているのかという視点からのインタビューで構成されていて、ある意味、本書における最も大事なパートになっています。ダイジェストのつもりだったのにいつの間にか(いつものように?)長々と引用するかたちになってしまった本書の「振返り」でしたが、この最終章に限っては、飾らない生の声をそのまま読むことに価値があると思うので、ここにその内容を記すことは控えようと思います。

余談① 「シュマリ」と「ハルコロ」

本書を読み進めるのと並行して、アイヌにまつわる二つの漫画を併せ読みました。一つは手塚治虫『シュマリ』(1974-1976年)、もう一つは石坂啓『ハルコロ』(1992-1993年)です。それは、先に読んだ中川裕『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』の中に次の記述があったからです。

これまでにも、漫画やゲームの世界でアイヌが重要なキャラクターとして登場する例はありましたが、それはほとんど現実から遠く離れたファンタジーのような存在……か、あるいは歴史の中で虐げられ滅びかかった弱き存在(手塚治虫「シュマリ」に登場するアイヌたち)として描かれるかのどちらかでした。そこから外れたアイヌ像を初めて見せてくれたのは石坂啓さんの「ハルコロ」で、これは伝統社会でのリアルなアイヌの生活を描いた良作でしたが、アイヌ文化にもともと興味を持っていた人たちの枠を超えて、広く関心を集めるには至りませんでした。

『シュマリ』は明治初期の北海道を舞台に、元旗本でアイヌ名シュマリ(「狐」という意味)を名乗る主人公の半生を描く作品ですが、コミックスで全4巻のうち前半の2巻は言ってみれば北海道ウエスタンといった雰囲気だけで脈絡の読めないストーリーが続き、この物語は本当に着地できるのか?と読者を不安に陥れます。それもそのはず、もともと手塚治虫はこの作品を明治初期に侵略者である内地人と対決した架空のアイヌのヒーローの話として構想し、主人公もアイヌと内地人の混血の青年としていたのに、作者がアイヌ問題は、かるがるしく漫画やフィクショナブルな物語では取り扱えない、複雑で、重大な問題を含んでいて、しかも征服者である内地人であるぼくが、被害者であるアイヌの心情などわかるはずがないと悟ったために、連載開始の土壇場で設定変更を余儀なくされたのだそうです。この言葉の行間からは作者の忸怩たる思いも伝わってくるようですが、それでも後半の2巻に入るとようやくシュマリ以外の登場人物たちに命が宿り、それぞれの生と死を経て最後には思いがけない終着点に辿り着くのですから、そこはさすがに手塚治虫です。さて本作中のアイヌですが、確かにごくたまに登場するものの、おおむね和人による迫害の被害者であり続けるのは上記の通り。それでも、最後にシュマリの消息を読者に伝える役割を担ったのがアイヌ出身の若者だったことには、手塚治虫の意地のようなものを感じました。また、物語の前半で「五稜郭の御用金」「刺青による地図」、後半で「死んでいなかった土方歳三」が出てくるところは『ゴールデンカムイ』との時空を超えたつながりを思わせました。

かたや『ハルコロ』は、本多勝一の『アイヌ民族』を原作として「15世紀前半を舞台とする架空のアイヌ女性の生涯」を描いたものとされていて、主人公ハルコロ(「いつも食べるものがある」という意味)のおおらかな少女時代から悩める思春期を経てめでたく結婚し母親になるまでの年月が、同世代の男女との関わりの中でまったく普通のラブコメのテイストで生き生きと綴られていきます。どのエピソードのどのコマをとっても考証が行き届いているのは萱野茂氏が監修に加わっているからで、たとえばアイヌとカムイの関係やアイヌの各種習俗にまつわる的確な説明は、中川裕氏の著作を先に読んでいたために既視感を覚えたほどですが、こちらの方が『ゴールデンカムイ』より30年も前の作品であることを思い出すとその行き届いた描写に感心します。そしてこの物語は、その終盤でハルコロの息子パセクルからさらにその息子へと2世代を経てコシャマインの戦いを予告して終了しますが、最後のこの部分を除けば(つまりハルコロの物語の中では)和人の影はありません。また、そこに描かれるアイヌ社会も狩猟と農耕に基づく自給自足経済を前提としているようで、今回読んだ『アイヌ学入門』が強調していた「交易の民」としての色彩は希薄でした。

ともあれ、いずれもこの分野での読書体験に膨らみを与えてくれたのは良かったのですが、このように一冊の本を読むために複数の関連図書を新たに購入していたのでは、いつまでたっても「積ん読解消月間」は終わりそうにありません。

余談② フォスコ・マライーニ

『アイヌ学入門』の終盤の祭祀に関する章の中で、祭具イクスパイに関して次の記述がありました。

イクパスイの集成と分類をおこなったイタリアの民族学者マライーニは、サハリンには一本のイクパスイが二股になった例があり、イクパスイの「パスイ」が日本語の「箸」の語に由来することから、その成立には日本の箸にかかわる祭具の影響があった、と考えているようです(マライーニ1994)。

マライーニ?その名前には覚えがあるぞ……と思ってこのブログ内を検索したら、2001年に東京都写真美術館(恵比寿)で開催された「フォスコ・マライーニ写真展」を見に行ったときの小さな記事が見つかりました。

フォスコ・マライーニ(1912-2004)はフィレンツェ生まれの文化人類学者で、第二次世界大戦の前後に日本に滞在し、アイヌの文化・信仰について研究するなど日本とは関わりの深い人物です。2001年の写真展は、写真家としての顔も持っていたマライーニが南イタリア、チベット、日本などで撮影した170点に及ぶ写真を展示するものでしたが、そのときの図録を引っ張り出してみると……。

あったあった。これは図録に掲載された写真のごく一部ですが、確かにアイヌの儀式を撮影した写真(1954年・1971年)です。このことはこの図録を本棚にしまってから20数年間も忘れたままだったのですが、図らずもこうしてこれらの写真と再会することができたのは、奇遇というほかありません。

脚注

  1. ^この点に関する最新の知見は〔こちら〕を参照。
  2. ^オホーツク文化については〔こちら〕を参照。なお、『日本書紀』において阿倍比羅夫が7世紀中葉(斉明天皇治世)に征討した「粛慎みしはせ」はオホーツク人のことだと言われています。
  3. ^この過程でアイヌのDNAに縄文人にも本土日本人にも存在しない北東アジア由来のハプログループYが取り込まれた。
  4. ^このあたりの経緯は、ウポポイでの展示でも史料をもとに具体的に説明されていました。
  5. ^たとえば北千島では、逃げ場のない島嶼という環境における疫病(とりわけ疱瘡)の伝染予防という実質的な意味があったと考えられます。
  6. ^この頃から日本側の史料にラッコ毛皮の輸入の記事が現れるようになります。
  7. ^その後、明治時代に入って再びゴールドラッシュが起こり、一攫千金を夢見て北海道に渡ってきた杉元佐一がアイヌの少女アシㇼパと出会うことになりますが、これはまた別のお話。
  8. ^筆者は「おわりに」の中で、富良野の山上から古墳時代(6世紀後半)の須恵器の祭具が出土した事実を紹介し、当時日本において探金を担った渡来系探鉱技術者がこの地に来訪していた可能性にも言及しています。